第3章

唇元に冷ややかな笑みを浮かべ、大島莉理は鞄を引き戻した。

「……いいわ。あなた忙しいんでしょ。私が届けてくる」

エレベーターでビル最上階まで上がり、そのまま社長室の前へ。

来る途中、加藤柚奈の姿はどこにもなかった。

田中尚哉がここまで常軌を逸しているはずがない。きっと同姓同名――そうに違いない。

そう思った矢先、助手の佐藤宙が青い顔で小走りに駆け寄り、ドアに手を伸ばした莉理の手を慌てて押さえた。

「奥さま、田中社長は……い、いま大事なオンライン会議の最中でして。休憩室で少々――」

言い終える前に、社長室のドアが内側から乱暴に引き開けられた。

出てきたのは、加藤柚奈だった。

仕事用のスーツ。ぐしゃぐしゃに皺の寄った黒のタイトスカート。襟元のボタンも留めきれていない白いシャツ。乱れた長い髪、滲んだ口紅――。

誰が見ても、ついさっきまで何があったか分かる姿。

「加藤柚奈……あんた、どうして――」

莉理が言いかけた瞬間、佐藤宙の顔色がさらに悪くなる。必死に頭を回しているのが見て取れるのに、弁解の一つも出てこない。

「どうして、って?」

加藤柚奈は微塵も動揺せず、唇を弓なりにして笑った。薄い笑みの奥に、あからさまな挑発を滲ませたまま、莉理の耳元へ身を寄せる。

「莉理さん、もう見慣れてるんじゃないですか?」

……たしかに。

これ以上に目が腐る光景を、莉理はもう見てしまっている。

「莉理?」

声に気づいた田中尚哉が社長室から出てきた。莉理を見た瞬間、喉が小さく鳴る。

「ち、違う。聞いてくれ、俺は――」

「いいの。信じてる」

莉理は穏やかに微笑んだ。

「高橋さんが手が離せないって言うから、代わりに書類を届けに来ただけ」

公文鞄を渡すと同時に、彼のネクタイをそっと整えてやる。

「仕事の邪魔はしない。帰るね」

あまりにも平静。

その落ち着きが、田中尚哉の胸の奥を不気味にざわつかせた。

氷のような視線が佐藤宙へ向く。佐藤宙は状況が飲み込めず、困惑を浮かべたまま固まっていた。

「奥さまは、いつからいた。何を聞いた、何を見た」

低い声。周囲の空気がぐっと重くなる。

佐藤宙は圧に耐えきれず、隠し立てできなかった。莉理がドアを押そうとした瞬間から、加藤柚奈が出てくるまで。二人の仕草、表情、交わした言葉、言い方まで――一言一句、ありのままをなぞる。

もしそれが全部本当なら。

加藤柚奈は無垢な「おとなしい子」なんかじゃない。野心があって、欲が深い。

こんな女を放っておけば、遅かれ早かれ火種になる。

「尚哉……そんな目で見ないで……」

田中尚哉の瞳の奥に灯った怒りを見て、加藤柚奈は怯えたふりをして縋りつく。

「佐藤さんも言ったでしょう? 私、奥さまには何も――何も言ってませんから!」

田中尚哉は取り合わなかった。

禁断の関係は、もう少しずつ自分の手を離れ始めている。嘘の中で息をする生活が、心底嫌になっていた。

「自分の立場を弁えろ」

眉を寄せ、低く言い放つ。

「忘れるな。俺たちは最初から……取引だ」

――

あの日から数日、田中尚哉は残業も外の付き合いも控えた。

以前と同じように、帰り道にわざわざ回り道をして莉理の好きなケーキを買う。週末は買い物に誘い、時には自分で台所に立って料理まで作った。

算段は単純だった。

たとえ莉理が浮気に気づいていたとしても、これだけ「いい夫」を演じていれば、大事にはならない――そう踏んでいた。

けれど、彼がそうすればするほど、莉理の嫌悪は増していく。

まるで、自分の皿の肉を犬がくわえて二口噛み、よだれをべったりつけたまま返してきたみたいだ。吐き気がする。

ある朝。

リビングのソファでコーヒーを飲みながら書類に目を通している田中尚哉を見て、莉理は言った。

「今日、会社行かないの?」

田中尚哉は頷いた。ここ数日、莉理の態度が薄氷のように冷たく、胸が落ち着かないのだ。

「最近、会社もそこまで忙しくない」

書類を閉じ、笑って尋ねる。

「昼、何食べたい? 外で食べるか」

莉理の動きが一瞬止まった。

今日は流産手術の予約日。

「病院で検査があるの」

淡々と返す。

「子どもが無理なら養子でいいって言っただろ。わざわざ辛い思いを――」

言いかけて、田中尚哉は慌てて言い換えた。

「……俺も一緒に行く」

「いらない、私――」

拒む間もなく手を引かれ、玄関を出る。

もう誤魔化せない。――まあ、いい。

「……やっぱり、検査やめる」

田中尚哉が問い返すより先に、赤いスポーツカーが別荘の前に滑り込み、ぴたりと止まった。

降りてきたのは加藤柚奈。

今季の新作らしいピンクの高級ワンピース。耳元には真珠、首には何本も重ねたネックレス。手首のブレスレットに指輪――。

セレブというより、きらきらをぶら下げた飾り木みたいだった。

「田中社長」

加藤柚奈は距離を装いながら言う。

「サインが必要な書類が2件と、企画書の確認が1件あります」

何日も会えない。電話もメッセージも、返ってこない。

遊ばれて捨てられたら終わりだ――その恐怖に押されて、踏み込んできたのだ。

そして、息を整えると莉理へ甘い笑顔を向けた。

「莉理さん、この前のこと、本当にすみません。私と田中社長のことで……誤解なんて、ありませんでしたよね?」

その瞬間、莉理は心の底から感謝しそうになった。

田中尚哉を振り切る口実ができたのだから。

「加藤さん、仕事があるなら先に。あなたたち、忙しいでしょ」

莉理が去ると、田中尚哉の口元の笑みは一瞬で凍りついた。

彼は加藤柚奈の腕を乱暴に掴み、家へ引きずり込むと壁に押しつける。

「何のつもりだ」

「尚哉、違う……」

大粒の涙が頬を伝い、声が震える。

「この数日ずっと避けてた。もう私、要らないの……?」

田中尚哉の本音は、まさにそれだった。

終わらせたい。何度も思った。だが――。

「考えすぎるな」

背を向ける。

「尚哉!」

加藤柚奈が慌てて呼び止め、背中に向かって探るように言った。

「明日の夜、来てくれる? 明日は排卵日で……妊娠しやすいの」

その一言で、田中尚哉の胸がぐらついた。

迷い、そして重く頷く。

「……明日、行く」

言い捨てて外へ飛び出し、莉理を追う。

だが姿は見えず、電話も繋がらない。検査と言っていたことを思い出し、彼は病院へ向かった。

いつも莉理の体調管理を担当している医師のもとへ行き、尋ねる。

「小嶋主任。うちの妻、さっき来ましたか」

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